今週のお題「あったか~い」
▼前回のお話
探偵・東 小路は「スーパーたまるか」を出た途端、鬱積したストレスによってその場に崩れ落ちた。夕闇が深まるにつれ、行き場のない心の傷跡は刻々と広がっていくことだろう。
こうなったら気晴らしだ。事務所に戻る前に一杯飲んで帰ることにした。大腿四頭筋に力を込めて立ち上がり、歩きはじめた。事務所の前を通りすぎて、ヤスキヨ電器の角を右に曲がった。まとわりつく豚骨ラーメンの香りを払いのけて、さらに直進した。
東 小路は「割烹 ナイス」の重い引き戸をガラガラと開けた。レジ脇に立っているホール係の若い子と目が合う。
頭に白い三角巾を巻き、えんじ色の作務衣。左の胸元に安全ピンで留められた長い布切れが目を惹く。幅3センチ・長さ10センチほどあって、ひらがなで大きく「はれ」と書かれている。前回来店したときと書体がやや違っているので、どうやら毎回手で書きかえているようだ。
「いらっしゃいませ!お一人様ですか?」
東 小路はそうだと頷いた。
「お一人様だと入りにくいお店だな…と思われませんでしたか?」
東 小路はそうでもないと首を横に振った。
「じゃあ、お一人様に見せかけておいて、実はお二人様でしたっ!なぁんてことは、ございませんか?」
東 小路はございませんと頷いた。
「では、カウンターのお席にご案内しますね!ご新規、まぎれもなく1名様でーす!」
はれは厨房に向かって、透きとおる高い声でこう続けた。
「ナーイス!」
間髪を入れず、厨房からは太く低い響く声が呼応する。
「かっぽーぅ!」
声の主は、総料理長・野中 洋光である。
格子状の衝立で仕切られた座敷が通路をはさんで両側にある。歩を進めるごとに、間接照明の灯りがちらちらと東 小路の頬を照らした。突き当りに重厚な欅のカウンターが見える。先客はない。
東 小路は角張った木製の椅子を引き、左端に座る。タイミングを見計らって、はれがおしぼりと湯呑をカウンターに並べた。
おしぼりを手に取ろうとするが、思いのほか熱くて手を引っ込めた。それではと湯呑の方に手を伸ばしたが、これもまた熱い。
「探偵さんは猫舌だと聞いていましたが、手も熱さに弱いんですね」
「なんというんですかね。猫皮膚かな」
はれはクスっと笑って、注文を伺う顔をした。いつものようにビールと言いかけたとき、厨房につながる暖簾が捲くりあがると、昭和の舞台役者を思わせる大きな顔が覗いた。
大きな顔の主は、総料理長・野中 洋光である。
「おぅ。探偵、いらっしゃい。煮込みがあるんだけど食べるかい?」
「煮込み!それは嬉しいですね。じゃあ、ビールじゃなくて芋焼酎のお湯割りにします。」
東 小路の答えを待たず、彼は厨房へ下がった。はれは伝票にペンを走らせ、オーダーをひととおり復唱すると、また透きとおる高い声でこう〆た。
「ナーイス!」
低く響く声がふたたびそれに応えた。
「かっぽーぅ!」
声の主はもちろん、総料理長・野中 洋光である。
東 小路は程よい温かさに落ち着いたおしぼりの封を切り、湯呑の茶を口に含む。思いがけず長丁場となったあの事案を振り返っていた。
▼あの事案
聞くところによると、当初1,000字くらいでまとめるはずだったのに、ああなってしまったらしい。突如その思案を打ち消すように、碗を携えた太い腕がカウンターの向こうから伸びてきた。
「はい、探偵!」
太い腕の主は、総料理長・野中 洋光。煮込みの登場である。
「いただきます!」
「どうよ?」
「なん…か…これ、関東風の『モツ煮込み』ですね!うぁ、いいな〜!こっち帰ってきてから、こういうのはなかなか出てこないんで。どれくらい煮込むんですか?」
東 小路はホクホクとした表情で尋ねた。
「煮込んでない」
そう断言したのは、総料理長・野中 洋光である。
「えっ?」
「モツは茨城県から薔薇豚のを取り寄せた。こんにゃくは群馬県産。人参、大根、蓮根は長崎県産だ。ただ…煮込んではいない」
「煮込んでない?」
「そう、煮込んでない」
東 小路は唖然としている。箸が止まった。
「じゃじゃ、どうやって…」
そのとき、ガラガラと入り口の引き戸が開く音がした。しばらくして、はれの透きとおる高い声が聞こえた。
「ナーイス!」
野中はニヤリと口の左端をあげると、右指をパチンと鳴らして、その人差し指を東 小路に向ける。
「かっぽーぅ!」
一声張り上げて厨房の奥へと引っ込んでいった彼は、そう、総料理長・野中 洋光である。【来週へ続く】