今週のお題「最近あったちょっといいこと」
探偵・東 小路は、通帳への記帳を済ませると十八百万銀行のATMコーナーを後にした。
『マグネット広告、磁力消失事件』
水漏れ修理業者がポスティングする、あのマグネットから磁力が奪われる事件だった。
冷蔵庫に貼ってあるだけなら被害は少ない。子どもの書いた落書き、給食の献立表、学校からの連絡事項、期限ギリギリまで提出を躊躇っている会合への出席票…留めていたモノたちが、力を失って瞬時に床に撒き散らされた。
心霊現象にも似た光景である。影響範囲は伊座早市内のほぼ全戸に及んだ。
遭遇した市民のショックと混乱は相当なものであった。悲鳴をあげる者、家を飛び出す者、混乱に乗じて空き巣に入る者、プロポーズのために仕込んでいたフラッシュモブを台無しにされた者。
折りしも、東 小路が「割烹 ナイス」で特製もつ煮込みに舌鼓を鳴らしていた、あの夜のことである。
▼もつ煮込みのお話
「まったく痛々しい話だ」
磁力を取り戻したマグネットをヒラヒラさせながら事務所に戻ると、叔父の永昌 博士が永昌 アレイのメンテナンスにやって来ていた。
バージョンアップば、すっけんな。
数日前にそう予告されていた。アレイはソファに腰かけ、叔父は背中を向けて作業をしている。
アレイの現在のバージョンは1.0.0。その名は古代の偉人「稗田阿礼」にちなんでおり、記憶とナレーションに長じている。一度、音読によってインプットされた書籍や事典の内容は忘れられることがなく、いつでも取り出せる。ただし、アウトプットは口述に限られる。
こういったアレイの性能が、東 小路の探偵業務に大変役立っているかというと、そうではない。けれど足を引っ張っているかというと、そんな実感もまた無い。
むしろ他のことで役立っている。留守番してくれるし、接客もこなすし、用があれば呼びに来てくれるし、現場にも同行してくれる。
「まぁ、同行してくれたところで、どうこうしてくれるわけではないが…」
ぐふっ
東 小路がみずからの思考に噴き出したところ、くわえタバコをした叔父が振り返った。
「おぅ、もう少ぅしで終わっぞ」
永昌 博士がどこをどういじったのかはわからず仕舞いだったが、アレイの瞼が開いてアナウンスを始めた。
「サイキドウチュウ…ゴジュッパーセント…ロクジュッパーセント…」
東 小路はアレイに水を差す。
「あ、そういうのはいいから」
「ちっ!」
アレイの舌打ちを聞き流すや、叔父はアップデートの説明をはじめた。
まずアウトプット方法がプリントアウトにも対応した。それはちょっといい!やりようによっては面倒な書類の処理をアレイに任せられるではないか。しかし、いったいどこから紙を出すというのか。
「どこから?手さ」
永昌 博士は書く素振りをしてみせた。しばらく意味がわからなかったが、目の前でアレイがわりと丁寧に、
え射給はじ
と紙にペンで大きく書き、満足げに親指を立ててみせた*1。
あゝなるほど、と合点が…いやいやいやいや、まさかの手書きかよ!
でも、一度書き出したファイルはPDF化されてアレイの内部に保存されるので、コンビニでもプリントアウト可能。この点は便利だ。
その際はアレイをコンビニまで連れて行く必要がある。えっ、不便ではないか。
不意に一つの仮説が芽生えた。アレイの当たり障りのなさ…いってみればアンドロイド臭さが気にならないのは、凝り性の叔父が「完全な人型」を極めようとしている結果だからではないか。それゆえ、われわれが期待する方向とは真逆に、強引なまでに、アナログに寄せていっているのではないかと。
「こいが、アレイのバージョン2.0.0」
永昌 博士が説明を締めくくった。
「えっ!?これだけ?」
「あゝ忘れとった!地デジも受信でくっぞ」
「地デジ!?」
「使うとやったら受信契約ば…」
そのとき事務所の呼び鈴が鳴った。アレイが素早く応対に出たが、誰とも言葉を交わす様子もなく、訝しげな表情を浮かべて戻ってきた。
「探偵、玄関にこんなものが」
アレイは携えていた箱を東 小路に手渡した。大きなクエスチョンマークが描かれた箱の片隅には、小さなリボンが飾られている。【来週へ続く】
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