〜これはまた別の日の話〜
探偵・東 小路は、ポストに投函されていた1枚のDMを引っ張り出して、ズルズルと引きずりながら事務所への階段を上った。
「おはよう、アレイ。あ…今日はオフにするよ」
厨房の奥にいる助手・永昌 アレイに声をかけると、アレイの返事とコーヒーの香りがデスクまで届いた。
椅子に腰かけるとDMを広げて全容を眺めた。白地に黄色がアクセントのシンプルなデザインである。
そのサービス名は、
FREE deYANCE
見出しを拾い読みすると「翌月末支払いの請求書を即日入金」「フリーランス特有の事故の補償」などなど、まさに東 小路のようなフリーランサーをターゲットにしたオンライン・サービスだった。この事務所にDMが投函されていたのは偶然ではないだろう。
ついにこんな時代が来たのだな…と東 小路は感慨深げだ。終始綱渡りだった「はたらきかた」にようやくセーフティーネットが用意された。それがビジネスとして成立するということは、サービスの受け手であるフリーランサーの裾野が広がりはじめたことを意味している。
そういえば、こういうことをよく訊かれる。
「フリーって、自分で時間を決めて仕事するの難しくないですか?」
案件を獲得するほうがよっぽど難しいのだが、定時で勤めている人からすると時間の使いかたに不安を覚えるらしい。東 小路、自身の実感としては自分を律する力がズバ抜けている…とは思わない。
彼の場合は「クライアントとの契約を履行するための時間」と「スキルの維持・向上に充てる時間」の2つを24時間から天引きしておいて、残りの時間を自由に使うタイプだ。
定時のない生活に身をおいたばかりのときは、背徳感を覚えたものだ。しかし、混んでいる時間帯を避けてランチに出かけたり、人の少ない平日のショッピングモールを歩いてみたりするうちに、そうしていても誰にも咎められないのだということに気づく。
やがて毅然とした態度で、月曜日の朝から「今日は休んじゃおう」と決められる素地が仕上がってくる。サボっているわけではない。案件の進捗度と相談の上で、休めると判断しているだけのことだ。
「昼間っからほっつき歩いて、いったいどんな仕事をしているのかしら?」という近所の目もあるが、まぁこれも含めてフリーランスの特権であり醍醐味といっていい。
こういう時間の使いかたに慣れてしまうと、定時や役職といった型の存在する世界には戻っていける気がしない。福利厚生もボーナスもないが、フォーマットに身を埋め込むことで受けるストレスと、トレードオフではないかとさえ思う。
時間の使いかた云々よりも、なにより腐心するのは案件をコンスタントに受注していくことだろう。スキルを持っていることは大前提として、受注に繋がるような広報力もまた磨かなければいけない。フリーランスとして生き残っていくための素養とは、
「スキルと、アピールと、それから…美貌かな」
「それは探偵…」
コーヒーを運んできたアレイが鋭く指摘する。
「さすが覚えていたか」
アレイの淹れてくれたコーヒーを一口啜ると、ランニングにでも出かけようと思い立った。
「せっかくオフですし、長距離に出ますか?キロペース5分50秒くらいで1時間ほど走るとすれば、まず栄螺町商店街を十八百万銀行の方に出て、伊座早高校に向かって…」
アレイはランニングコースを提案しはじめた。そのコースで走ってみよう。
それにしても…このDMはどうだ。Webサイトをそのままプリントアウトしたような異様な長さで、長尺すぎてポストから取り出すのにも一苦労した。東 小路はクルクルと巻物のように巻いてデスクに転がした。
ランニング・ウェアと鍵と電話。東 小路は最低限の持ち物を携えて、十八百万銀行前からスタートを切った。この時季は冷気が目を直撃して涙を誘うが、それも伊座早高校前まで走っていれば自然に慣れてくる。
見通しが良い。遠くで高校前の歩行者信号が赤に変わるのが見えた。やや走るペースを緩めていると、前方から1台の軽トラックが向かってきていた。
(まずい…)
東 小路は咄嗟にあたりを見回したが、身を隠す場所がない。「黒猫の赤い飛脚便」と屋号の記された軽トラックの運転手は、目聡く東 小路の姿をとらえて、クラクションを軽く2度鳴らした。
(ペリカンからは逃げられんか…)
「ちゃーーっす!ちょうど良かったっすよーー!」
運転手の名は、日の出 順。独自のノウハウとサービスを開発して、伊座早市で起業したばかりの個人事業主である。一度会うと忘れられない顔立ちをしていて、突出したアゴを持つことから通称「ペリカン」と呼ばれている。
「探偵さん!『チョクパス』で届いてますんで!」
チョクパスとは、日の出が開発した本人に直接手渡しする配送サービスである。受け取る側は断れないため、再配達のロスがない。
「はーい!じゃ、たしかに!毎度!!」
勢いよく走り去る軽トラックを見送るようにして、東 小路は80サイズのダンボールを胸に抱えて佇んだ。【次回から元の話に戻る】
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