今週のお題「忘れたいこと」
探偵・東 小路 は、クエスチョンマークの描かれた小箱を軽く揺すった。カタカタと音がするだけで、ぬるっとしたような液体の動く感触はない。
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よし、開けてみよう。箱の上部を持ちあげようとするが、思うように蓋が開かずに苦戦する。助手の永昌 アレイが最初は小声で囁く。
「探偵、」
「…なんだ?」
「探偵、」
「…うん?」
東 小路は手こずり続けている。なんだこの箱は。
「探偵、スライドです」
「えっ?」
小箱は抽斗のようになっていて、内側を引き出すタイプの箱だった。
「さすがだな、アレイ」
「探偵も、相変わらず……ですね」
「なんだって?」
東 小路は口を尖らせて訊き返すが、アレイは真顔のまま応答しない。
箱には1本の細長い物体と、インクボトルの形状をした壜が1本。動かないようパーテーションで仕切られて、綺麗に嵌 めこまれていた。
ボトルにはクエスチョンマークの描かれた白いラベルが貼られている。光にかざすと黒色に近い液体で満たされており、一見するとインクである。だが劇物の可能性は否定できない。
「ということは、ペンだろうか」
東 小路は細長い物体を手にとった。漆黒のボディ。鉛筆よりもやや太めで、金属の冷たさが指に伝わってくる。
その両端は切り落とされたように平坦であり、一方の先端からもう一方の先端に至るまで太さに変化がない。直径1cm・長さ13cm。穴の空いていないストローのような形状である。
押し込むスイッチはないので、ボールペンの類ではないらしい。電流が流れるようなイタズラを目的としたグッズでもなさそうだ。ボディの中程に切れ目があった。
「もしかしてこれは…」
東 小路は物体の両端をつかんで、左右に軽く引いた。パチンという音を立ててキャップが外れ、ペンの先端が姿を現した。
「探偵、これなんですか?」
見たことのない形状のペン先に、アレイが不思議そうに覗き込んだ。東 小路は即答した。
「割り箸だな。いわゆる、ハシペン」
ということは…ボトルを満たしている液体は、あの独特の匂いを放つハシペン用の絵の具ではないのか。
東 小路はインクボトルのキャップを回した。なんの造作もなく蓋が開くと同時に、彼の鼻を刺激したのは、期待したあの独特な匂いではなかった。とっても日常的な香りである。
「嘘だろ…醤油だ」
数滴、手のひらにこぼした。匂いを嗅いで確信を得て、少しだけ舐めた。間違いなく醤油である。この塩気が控えめで、卵かけごはんにピッタリ合いそうな醤油は、おそらく滋賀県産のものだ。
なぜ?という問いが頭をもたげた。何者かがこれを贈ってくる意図がわからない。意図どころか、これをどうすればいいのかさえ。
ひとまず、ペンをインクボトルの中に浸してみた。まっさらな割り箸の先端が醤油を吸い込む。デスクに散らばっていた書類を1枚裏返して、うねうねと波形を描いた。ひと足遅れて、醤油の香りが立ち上ってくる。
これ以上のことは、なにも起こらなかった。醤油を使ってハシペンで落書きをした…ただそれだけのことである。
東 小路とアレイは顔を見合わせて、ダブルクリックする速さで二度頷く。そして、しばらく沈黙の時間があった。突如、
「どうしろっていうんだ!」
東 小路はたまらず大きな声を出した。こんなシュールな仕打ちは…いったい、いったい。あゝ思い出してしまった。同じ心境に陥ったあの日のことを。
コンビニでスープ・スパゲティを買い求めたときのことだ。
それはお湯を注いで3分待って食べるタイプのスープスパだった。ビニール袋から箸を取り出そうとしたら、あの店員、スプーンを1本だけ入れていた。果敢にもチャレンジした。しかし、スパゲティはツルツルツルツルと滑り落ち、1本たりともスプーンに引っかかることはなかった。
小春日和の暖かな日、たった独り、公園のベンチで叫んだ。
「どうしろっていうんだ!」
また別の日、コンビニで1リットルの麦茶を買い求めたときのことだ。店員は気を利かせてストローを付けてくれた。それは15cmくらいの短すぎるストローだった。使ってみると、案の定、ストローはパックの底に沈んでいった。
「どうしろっていうんだ!」
出来心でパンを焼いたとき、ドライイーストを入れ忘れていた。待てども待てども膨らまず、焼きあがったのは石のような硬さのパンだった。
「どうしろっていうんだ!」
忘れたいことは思いもよらぬ出来事がきっかけとなって、芋づる式に呼び起こされるものである。
この連鎖を断ち切るかのように、事務所の電話のベルがけたたましく鳴り響いた。【次回へ続く】
▼参考:辛すぎず甘すぎず卵かけご飯に合う醤油
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